REPORTER05
利便性や快適さを考えれば、スタジアムは新しいにこしたことはない、のかもしれない。
でも、欧州や南米で最新のスタジアムを訪ねて「すばらしい」とは思っても、それは「日本にもこういうスタジアムがほしい」というあこがれとは少し違ってくる。
どんなに古くて使い勝手が悪くても、この街にあるこのスタジアムだからという部分がないと魅力的には映らない。
その理由をたどっていくと、スタジアムが積み重ねてきた歴史や雰囲気みたいなものなのだろう。あの名勝負の後半アディショナルタイムに相手シュートがバーをたたいて肝を冷やしたといった生の記憶や、昇格争いを巡る歓喜や悲嘆。そういった歴史を重ねていって、スタジアムはただの器ではなくなっていく。
それは、ピッチの上の話とも通じている気がする。
資金力にものをいわせて選手を入れ替えてチームを新しくしても、世界最先端のモダンなスタイルを追い求めていても、それだけでは心を揺さぶられない。このクラブは90分間、足を止めないことを哲学にしているとか、むしろ根っこの部分で変わらないなにかをかたくなに守ってきているからこそ、愛着と誇りを持てるのだ。
話をスタジアムに戻そう。
イングランドのプレミアリーグがエンターテインメントとして高く評価されるのは、ピッチのすぐ脇にまで観客席が迫るスタジアムによるところが大きい。
無粋な金網や高いフェンスはない。段差や堀もない。スタジアムによっては、ピッチ上に置かれた看板をまたげば、選手に手が届くようなところもある。選手の声、ボールをける音、芝の香り。ピッチと観客席は隔たりなくつながっていて、見る側も目の前の試合を演出する作り手なのだ、という一体感を持たせてくれる。
イングランドが金網やフェンスを取り払ったのは、やはり英国スポーツ史上最悪の悲劇という歴史がきっかけだ。
1989年4月15日、シェフィールドのヒルズボロスタジアム。テラスと呼ばれるゴール裏の立ち見席に収容人数を超えるサポーターが殺到し、フェンスに囲まれて逃げ場を失った人々が折り重なった。亡くなった96人のほとんどが圧死だった。
この事故と検証をもとに、フェンスはなくなった。イングランドの人々は、非常時にはピッチを避難場所とする選択をした。サポーターを監視する大量のカメラは設置されたが、サッカーの母国は性善説をとった。そして、ヒルズボロのスタジアムは改修を重ね、収容人数を減らしたいまも、地元サポーターが集う場所である。
スタジアムに血を通わせ、息吹を吹き込むのも結局はひとであり、どんなスタジアムにするかもひと次第なのだ。
たかが10年、されど10年である。
フクアリは濃密な時間と歴史を積み重ねているだろうか。2008年のFC東京との最終戦のような瞬間を、選手は、クラブは、サポーターは生み続けているだろうか。
潮 智史
朝日新聞スポーツ部