HISTORYオシム氏の軌跡
- 1941
- 5月6日、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)生まれ。
- 1959
- FCジェレズニチャル・サラエボで選手デビュー。
- 1970
- RCストラスブールへ移籍、スダンFC、ヴァランシエンヌFCなどでプレー。
- 1978
- 現役引退後、ジェレズニチャル・サラエボで指導者のキャリアをスタート。
- 1981
- ジェレズニチャル・サラエボの監督に就任。
- 1986
- 旧ユーゴスラビア代表監督に就任。
- 1990
- 旧ユーゴスラビア代表監督として1990FIFAワールドカップイタリア大会に出場。
ベスト8の好成績を収める。
- 1991
- 欧州選手権予選を突破するも、内戦のために出場は果たせなかった。
- 1992
- 代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督を兼務。国内カップ優勝。
その後、代表監督辞任を発表。ギリシャのパナシナイコス・アテネの監督に就任。国内カップ1回優勝。
- 1994
- シュトルム・グラーツの監督に就任。2002年までにオーストリア・ブンデスリーガ優勝2回、カップ戦優勝3回、スーパーカップ優勝3回を飾った。
またチャンピオンズリーグにも3回出場し、2000年にはオーストリアのチームで初めて、チャンピオンズリーググループリーグ首位で突破をした。
- 2002
- シュトルム・グラーツ監督を辞任。
2002FIFAワールドカップJAPAN/KOREAではテクニカルスタディグループのメンバーとして来日。
- 2003
- ジェフユナイテッド市原の監督に就任。
1stステージ3位、2ndステージ2位、年間総合3位の成績。
- 2004
- 1stステージ7位、2ndステージ2位、年間総合4位の成績。
- 2005
- 2005Jリーグヤマザキナビスコカップでクラブ史上初の優勝。リーグ戦4位の成績を収める。
- 2006
- 6月 同チーム監督を辞任。
7月 サッカー日本代表監督に就任。
- 2007
- SAMURAI BLUE(日本代表)としてAFCアジアカップに出場し、4位。同年AFCアジア/アフリカチャレンジカップ2007(大阪)で優勝。
11月 自宅で脳梗塞のため倒れるが一命を取り留め、その後回復。
- 2008
- 日本サッカー協会とアドバイザー契約を締結。
- 2009
- オーストリアに帰国。
- 2011
-
母国ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー協会が民族別で3つに分かれた状態の統合を求められたがそれを拒否。FIFA・UEFAから資格停止されたが、その解決をするための「正常化委員会」委員長に就任。同5月には会長を一本化することで資格停止を解除へ向かわせた。
帰国後はメディアでの登場は何度もあったものの、本人が強く望んでいた現場への復帰は残念ながら叶わず。
- 2022
- 5月1日 オーストリア・グラーツのご自宅でご逝去(80歳)。
- 2022
- 第18回日本サッカー殿堂入り。
日本サッカー界での実績
JEFジェフユナイテッド市原・千葉
- J1リーグ
- 106試合 49勝 35分 22敗
- リーグカップ
- 29試合 17勝 5分 7敗
- 天皇杯
- 3勝 3敗
JAPAN日本代表
- 国際親善試合
- 4勝 1分 1敗
- アジアカップ予選
- 4勝 1分
- アジアカップ
- 3勝 1分 2敗
- 3大陸トーナメント
- 1勝 1敗
- AFCアジア/アフリカ
チャレンジカップ2007
- 優勝