COLUMNコラム
[とことん愛された俺たちのバンディエラ]
ストーリーは、終わらない。
10月16日、午後。
これから引退会見が行われるミーティングルームは、とても慌ただしかった。何人ものスタッフがバタバタと出入りを繰り返し、せっせと準備を進めていた。
特注の写真パネルが4つ。特大フラッグが3枚。それらがセットされると元クラブスタッフがアレンジした花飾りが机に置かれ、ちょうどよく華やかな黄色いステージが完成した。
誰かが言った。
「愛されてんなあ、勇人」
ホントだなあと、僕は思った。
◆
メディアの人間として、佐藤勇人に初めてインタビューしたのは2007年夏のことだ。気を遣ったつもりであえて聞かなかったのに、25歳のキャプテンは勝手に語り始めた。
「イリアンの件、チームメイトとして責任を感じています。悪いのは彼ひとりじゃない。ジェフにかかわる全員です」
アマル・オシム監督に反発し、唐突に移籍してしまったイリアン・ストヤノフのことだった。おいおい。なんだよ。Jリーガーってずいぶん熱っぽいんだな。それまで海外サッカーばかり追いかけていたほとんど新米記者の僕は、今になって思えばいかにも勇人らしいピュアな男らしさにどハマりした。以来、少しずつ近づいて観察するようになった。
勇人とサッカーの話をするのは、最高に面白かった。
ほとんどの選手が、たぶん本音ではメディアの人間とサッカーの話なんてしたくないんだろうなといつも思う。当たり前だ。一方はプロ。一方はアマチュア。逆の立場だったら、まだアドレナリン全開の試合直後によく知らないヤツとサッカーの話なんてしたくない。2007年からJ2に落ちるまでのジェフはいつもピリピリしていたし、まともに目を見て話してくれる選手なんてほとんどいなかった。
ところが、勇人は違った。
「その見方は正しいと思います」
「あの場面、どうするべきだったと思いますか?」
「気づいたことがあったら、また教えてください」
適当ではなく真剣に同意してくれたり、素直に疑問を投げかけてくれたり、時には(チームバスの影に隠れて)感極まる思いをぶつけてきてくれたり。つまり同じ目線でサッカーを考えようとしてくれるもんだから、こちらも調子に乗って、思ったことを何でも言うようになった。
僕にとってそれは、この仕事を選んで良かったと思える大切な時間だった。だから、記者の1人と選手として、試合後の取材エリアでたまに会うことが楽しみだった。
◆
2012年のことは、やはり忘れられない。
夏の盛りを迎えようとする7月15日。1-0で勝ったアウェイの横浜FC戦。なんとなく気になって肩を叩き、チームバスの裏に隠れて2人で話し込んだ。
―― 今、何を考えてる?
「うまくいかない」
―― 勝ったのに?
「いや、ジェフに戻ってきてからずっと」
―― 今のところ2位。悪くない。
「正直、もっとイメージどおりに、自分の描いたとおりに進むと思っていたから。J1に戻すために帰ってきて、3年目の今もJ2にいるんだから、自分に対して『ダサい』としか思わない」
―― 追い込みすぎるのもよくないよ。
「サポーターにも言われます。『背負いすぎだ』って。でも、正直、今年は生まれて初めて、『自分が試合に出なくても、チームが勝てればそれでいい』と思ってるんですよ。それくらい勝ちたいし、とにかくJ1に上げなきゃという使命感が、自分でもびっくりするほど強い。そういう性格だから、それをプラスに変えるしかないですよね。ここが、佐藤勇人の見せどころかなと思っているんだけど」
―― そっか……。
「正直、苦しいっす。誰にも相談することなく自分で決めた京都への移籍だったし、誰にも相談することなく自分で決めたジェフへの移籍だったから、自分で解決しなきゃいけないことは分かっているんだけど。悔しいというか、情けないというか、『俺の力はこんなもんなのか?』『もっとできることはないのか?』って、自分で自分に質問をして、その答えを探している感じ。もう、ずっとそう」
―― 踏ん張るしかないね。
「うん。そう。なんとかね。やらなきゃ」
4カ月後の11月23日。J1昇格を懸けた国立競技場のプレーオフ決勝で、ジェフは散った。ズシリと重すぎるその覚悟を知っていたから、取材エリアで声をかけることができなかった。
◆
佐藤勇人は、シンプルに“いい選手”だと思う。
誰よりも走れるし、誰よりも体を張れる。人間なら誰もが持っているナルシズムやエゴイズムを必死に隠しながら、自分以外の誰かのためにどこまでも頑張れる(ようになった)。
不器用なところも多分にある。ゴール前に飛び込むのが好きなボランチなのに、はっきり言ってシュートはヘタだ。だからこそ、真剣にブレ球を習得しようとした一時期の姿にワクワクした。彼は可能性を諦めない。
ピッチを離れれば心から優しく、ものすごく誠実で、とにかくいいヤツ。しかも良き友で、良き夫で、良き父でもあるらしい。それだけ揃えば、みんなに愛されないわけがない。
キャリアにおけるいろいろな意味でのピークは、たぶん2012年にあったと言えるだろう。あの果てしなく深い国立競技場の暗闇に落ちて、それから7年間も同じ挑戦を続けることができたその理由は、おそらく、勇人が誰からも愛される存在だったからに他ならない。外から見ていて「早く移籍すればいいのに」と思ったことは1度や2度じゃないけれど、面と向かってそう伝えると、彼はいつも首を横に振った。
「やめるなよ」とは今でも思う。「こっちは勇人が上がる姿を見たくてずっと追い続けてきたのに」と、文句のひとつくらい言ってやりたい気持ちもある。
でも、どこかホッとしている。
たとえユニフォームを脱いだとしても、誰からも愛される存在のままこの挑戦を続けられるのなら、もしかしたら、それはそれで最高かもしれない。
「自分が試合に出なくても、チームが勝てればそれでいい」
覚悟は7年前に決まっていた。
◆
ラスト2試合。最後の最後までずっと楽しみにしているよ。あのブレ球のミドルが、ゴールに飛び込む瞬間を。