11月20日、フクダ電子アリーナでイビチャ・オシムさんの追悼試合とセレモニーが行われる。
試合に参加する顔ぶれを見ると、懐かしい思いがこみ上げてくる。オシムジェフレジェンドは阿部勇樹さん、イリアン・ストヤノフさん、櫛野亮さん、斎藤大輔さん、坂本將貴さん、佐藤勇人さん、茶野隆行さん、羽生直剛さん、巻誠一郎さん、水野晃樹さん、村井慎二さん、山岸智さん……。
対するオシムジャパンレジェンドも加地亮さん、我那覇和樹さん、鈴木啓太さん、中村憲剛さん、中村俊輔さん、田中マルクス闘莉王さん……。これに遠藤保仁さんがいたら(※)、07年アジアカップを沸かせた俊輔、憲剛、ヤット、啓太の中盤のカルテットが再現されたのに。残念!
オシムさんがジェフユナイテッド市原(当時)の指揮を執るために日本にやって来たのは2003年のこと。それから日本代表監督に転出する06年夏までの間、オシムさんに率いられたジェフは本当に強かった。まだ2ステージ制が採用されていた03年は第1ステージ3位、第2ステージ2位で年間総合3位。04年は第1ステージ7位、第2ステージ2位で年間総合4位。1シーズン制で戦った05年は村井、茶野、マルキーニョスら主力を引き抜かれながら4位でフィニッシュし、Jリーグヤマザキナビスコカップ(現JリーグYBCルヴァンカップ)優勝を果たした。前身の古河電工時代を除けば、ジェフとして初めて手にした栄冠。これほどの躍進を就任1年目からチームは遂げたのだから、これを監督の手腕と言わずして、何と表現すればいいのか。
オシムさんとジェフの結びつきを振り返るとき、オシムさんを連れてきたゼネラルマネジャー(GM)の祖母井秀隆さんのことも思い出す。祖母井さんがGMだった頃、監督選びのエッジが効いていたというか。ヤン・フェルシュライエンさん(オランダ)、ニコラエ・ザムフィールさん(ルーマニア)、ズデンコ・ベルデニックさん(スロベニア)、ジョゼフ・ベングロシュさん(スロバキア)と来て、オシムさんが続いた。
ご存じの通り、ベングロシュさんは1990年のW杯イタリア大会でチェコスロバキア(当時)を率いてベスト8に食い込んだ名将。オシムさんは同大会で旧ユーゴスラビア代表を率い、ベスト8であのディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンと死闘を演じ、PK戦で敗れた監督(余談ですが、私が初めて生で見たW杯の試合です)。
つまり、あの時のジェフはW杯ベスト8の指揮官の間で監督の〝たすき〟をリレーしたわけで、オシムさんが起こしたジェフでの革命は、そういう一連の「攻めた監督選び」と無縁ではなかった気がするのである(攻めた分だけ成否はいろいろあったとしても)。
オシムさんが代表監督に転じた後、息子のアマルさんがジェフの監督を引き継ぎ、06年のリーグカップを制した。親子でリーグカップを連覇するなんて世界中を探してもそうあることではないだろう。それが最後の栄光というか、ジェフは09年にJ2降格が決まると、10年からそこが定席になってしまった。
市原臨海競技場の狭い記者会見場に身をかがめるように入ってくる大男のオシムさん。現在、日本代表を率いる森保一監督は記者の質問に「おっしゃるとおりですね」と優しく相づちを打ってくれるけれど、オシムさんにはありえない。「どう思いますか?」と問われると、ちょっと斜に構えながら「君はどう思う?」と逆質問したり、遠いところから話し始めながら聞いているうちにどんどん核心に迫って来たり、とにかく一筋縄ではいかない監督だった。
そういうオシムさんとのやりとりが、私は楽しくて仕方なかった。日本代表監督になった後、日本経済新聞で「オシム@ジャパン」という連載を始め、毎月のように会うようになってからは特にそうだった。オシムさんとの対話は緊張するけれど、最初から見識のレベルが違いすぎるので、自分を飾る必要がない気楽さがあった。自分を自分以上に見せようとしても、オシムさんはすべてお見通し。かえって恥ずかしいことになるのだ。
最良の教師(オシムさんのことです)は最悪の生徒(私のことです)を決してバカにしない。自分なりに一生懸命に考えたことなら何を聞いてもニヤっと笑い、あきれながらも答えてくれる。だからこちらも何でも臆せずに聞けた。人の揚げ足を取って、やっつけて悦に入る輩とは対極の、度量の大きな人だった。
今でもジェフの輝ける時代を思い出すことがある。クラブのJ1連勝記録(6)もホーム無敗記録(リーグ戦31試合、公式戦26試合)も、オシムさんの監督在任中に積み上げられたもの。記憶と記録の両方でオシムさんの時代が一番輝いていたと答えても、それほど異論は出ないだろう。この追悼試合を見に来た方たちの中にも、きっと往時を懐かしむファン、サポーターがいるに違いない。振り返るに値する素晴らしい時代があった。それって絶対にいいこと。何もないよりは。しかし――。
スポーツ漫画の金字塔といえる『スラムダンク』の主人公、桜木花道が試合の最中に監督に「オヤジの栄光の時代はいつだよ」と問う場面がありますよね。
ジェフの栄光の時代は間違いなく、オシムさんの時代。そう即答する私をオシムさんは生きていたら、きっとたしなめるのだろう。いつまで、そんな昔のことを、恋しがっているのか、いいかげんに前を見ろ、と。
オシムさんは日本で暮らしていた間も、時差のある欧州の試合を常にライブで見ていたという。世界の最先端の動向や兆候を見逃すまいとして。そういうオシムさんの姿勢、もっと言うと存在そのものが「日々新たなり」というメッセージだったような気がしている。同じところにとどまり続けるのは後退であると。
今日の追悼試合に集った、特にオシムさんの薫陶を受けた元チルドレンたちがその精神を受け継いで、日本サッカーの輝ける時代を今から未来へと築く礎になられることを大いに期待しています。それが一番、オシムさんが喜ぶことだと思います。
※遠藤保仁選手はチームイベントへの参加のため不参加
輝ける時代
- 日本経済新聞編集総合解説センター編集委員
- 武智 幸徳
日本経済新聞編集総合解説センター編集委員
武智 幸徳たけち ゆきのり
日本経済新聞・総合解説センター編集委員。入社以来、スポーツを一貫して取材してきた。
1980年代後半から日本サッカーのプロ化に関わったことで特にサッカーが専門領域となった。ワールドカップは90年イタリア大会は一人旅で楽しみ、94年米国大会から記者として7大会連続でカバー。
著作に「サッカーという至福」(日本経済新聞社)「ピッチのそら耳」(ベースボールマガジン社)など。