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#2

2020.1.21

ありがとう

佐藤勇人

残留争いをしているトップチームに比べ、アカデミーは全国でも強豪チームだったことも、選手を誇り高きものにしたのだろう。

「当時は調子に乗っていたので(笑)。自分たちアカデミー組がトップチームを強くすると思っていた」

とはいえ寿人のトップ昇格は早々に内定したが、勇人に関してはなかなか決定が下されなかった。当時は関係者十数人でその選手を昇格させるかどうかの会議が開かれたそうだが、勇人をどうするかという意見は見事に分かれたという。

「アイツを上げてもトップで問題を起こすだけだから、やめたほうがいいという意見が半分ぐらいあったと聞いています。でも、自分では自信がありました」

そして、昇格内定後の行動がなんとも勇人らしかった。

「実は、金銭面などの条件が寿人と違ったんです。ボクとしては何で? って思うわけで。親や寿人、周囲の人は当たり前だと思っていたし、今、思い返すと自分でも妥当だろうとは思うんだけど(笑)、当時は納得できなかった。理由を聞くために電話をしました」

納得がいかなければ真っすぐに突き進む。今も昔も変わらないが、その自信はトップチームに昇格して打ち砕かれた。

「2年間でリーグ戦の出場は、わずかに1分ですからね。厳しいと思いましたし、自分の準備も全然できていなかった」

遅刻が多く、門限も破っていた。高校時代の破天荒さが残っていただけに、サッカーに集中できていたかといわれればウソになる。そんな勇人の意識に変化をもたらしたのは、やはり寿人の存在だった。2年目の終盤、寿人の出場機会数が減り、セレッソ大阪への期限付き移籍を決断した。

「その話を聞いたときに、自分に大きな変化が生まれた。これでもし来年、自分がジェフを離れることになったら、あれだけ期待されていた佐藤ツインズがプロでは何もできなかったで終わってしまうじゃないかと……。自分はどうにかジェフで結果を出さなければいけないという思いが強くなった」

その強い思いを表明するかのように、それまで佐藤寿人がつけていた背番号14を引き継いだ。

「自分から申し出ましたし、自分を見つめ直してトレーニングに励みました。そうしたら、一気に変わりましたね」

後ろから押してくれるサポーターの存在もあった。ジュニアユース時代から佐藤ツインズに注目し、地方での全国大会にも応援に駆けつけてくれた。

「当然、双子で活躍してほしいと思っていたはず。ところが寿人が移籍してしまった。少なくとも自分だけはジェフで活躍しないといけない、と心を入れ替えました」

ジェフにとっても大きな変革期を迎えていた。2005、2006年、ナビスコカップを連覇。その功績はイビチャ・オシム元監督によるところが大きいが、その3、4年前からチームとして土台が作られていた。

「羽生直剛ともよく話をするのですが、ベングロシュさんのときぐらいからクラブとして方向性が見えてきた。いや、ズデンコ ベルデニックのときの時代からですかね。みんなの進むべき道が見えていたし、ついていくことができた。そして、みんながオシムさんを信じてついていった。そう考えると、選手のマネジメントは非常に大事だと思う。どういう選手がジェフに合っているのか、ジェフのために戦えるのか。アカデミー出身じゃなくても、どれだけジェフのために戦える選手なのか。そういうところをクラブとして見極めることも大事ですね」