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#049

2020.9.1 Update!!

たとえ歌ってもらえなくても。

堀米勇輝

今の堀米勇輝ができるまで。

堀米勇輝

―― 昔話も聞かせてください。いわゆるプラチナ世代の中心だった育成年代あたりから。

めっちゃ長い話になりますよ(笑)。でもまあ、10代の頃は本当にただサッカーが好きなだけで、努力しようなんて感覚もなくて、ただ楽しくてしょうがなかっただけで……。中学1年の夏休みに、初めてトップチームの練習に連れてってもらったんですよね。ジュニアユースの監督に。

―― 中1?(笑)

はい。まあ「ボール拾いでもしとけ」という話だったんですけど、間近で見るだけでも初めてなのに、練習の最後に“ロンド”(パス回し鬼ごっこ)の鬼だけやらせてもらうことになって。

―― ちなみに当時って……。

大木武さんが監督だった頃(2005〜2007)、甲府が最高に面白いサッカーをやっていた頃です。9対3か、10対3だったかな。10人よく入るなと思うらいの狭いスペースで。そしたらもう、みんなめちゃくちゃうまくて1回もボールに触れなかったんです。僕と一緒に鬼をやっていた選手もめちゃくちゃすごくて、杉山新さんとか石原克哉さんとか、鬼で追いかけていくスピードがハンパなく速かった。「これがプロか」と思いました。

―― 中1でそれを体験できるのはすごい。

当時のトップチームのコーチだった安間貴義さん(現FC東京コーチ)がジュニアユースの練習を見に来てくれていたし、よく一緒に練習してくれました。「お前、一生俺に勝てないな」とか言われながら、居残りで1対1とかをやってもらったりして。

そうやってトップチームを常に意識しながら練習していたら、気づいたら同年代の代表に呼ばれるようになって、自分では楽しくてやっていただけなのに気づいたら周りに評価されるようになって。だから、プロになってから壁に当たるんですけど、最初はそのことにも気づいていませんでした。技術なら「絶対に俺のほうがうまい」と思っていたし、フィジカルとかメンタルの足りないところには目が向かなかった。そこまでの危機感を持ってなかった。

―― 壁にあたっていることに気づかずに、そのまま消えてしまう選手もたくさんいます。

僕の場合、人に恵まれていたんです。自分自身には計画性なんてなかったし、とにかく甘かった。もっと早いうちから身体を作らなきゃならなかったと思います。だから、いろんなことに気づいたのは、本当に最近のことですね。京都から甲府に戻った2017年。吉田達磨さんが監督だった時。試合にコンスタントに出られなくて、それが原因で調子が上がらなくて。

その前の年は京都ですごく手応えのある1年を過ごせたから、「これは勝負だ」という強い気持ちで迎えた1年でした。でも、J1ではフィジカル的にまったく戦えなかったし、60分以降になると必ずガクンと落ちる。コンスタントには試合に出られない状況で、どうやって勝負すればいいのか。それを考えて、身体をちゃんと作らなきゃいけないなと思いました。やりたいことがあるのに、それをまったく表現できなかったので。

堀米勇輝

―― サッカーを、頭の中で整理するようになったのは?

いやあ、もうずっと感覚でやってきたので、少しずつです。熊本に行った時(2013年)に北嶋秀朗さんとか南雄太さん、藤本主税さんとよくご飯に行って、いつも話を聞いていて。サッカーの世界で長く活躍してきた選手って、やっぱりサッカーの話をめちゃくちゃするんですよ。その頃の僕は、感覚的になんとなく理解できるかどうかという感じでした。で、次の年は愛媛に行って、今度は監督だった石丸清隆さんから「相手を見てサッカーをするんだよ」と教えてもらった。「変化する相手を見て、それを判断してサッカーをしなさい」と。

そこで一気に、頭の中が整理された感覚がありました。「自分がここに立っているから相手はここにパスを出せないんだ」とか、「コイツが食いついてきたからこっちが空いたんだ」とか。そういう感覚。それまでは、「相手がここにいたらウザいだろーなー!」くらいの“ノリ”しかなかった(笑)。微妙な違いのようで、全然違いますよね。

それから吉田達磨さんに出会って、ヨーロッパのサッカーをたくさん観るようになって、「もっとこういうことをしなきゃいけない」とか新しいアイデアが出てくるようになって。「パスを受ける前に自分のスペースを広くしろ」と達磨さんに言われて、最初はまったく意味がわからなかったんですよ。正解を求めて動いてみたら「今は動くな!」と怒られるし。でも、それでサッカーの面白さを知りました。